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今夜の番組チェック

 
エイジンのサッカーノートU    

 グランドづくり

 ストリートサッカーをやるには、今の日本は交通事情や治安が悪くなっている。片田舎の静かな道路と思っていても、たった1台の車が凶器となって死亡事故を招いている。また、誘拐という犯罪は世の親たちを恐怖に陥れている。昭和62年の功明ちゃん事件は白昼でも子供を家に閉じ込めてしまう作用を及ぼしたのではないだろうか。私も練習をしていてあたりを見まわしながら怪しい人間はいないか注意するようになった。児童少年にとってもけして暮らしやすい所とは言えなくなった。いやな世の中になってしまいましたね。

 チームとしての正式な形をとることと、少年を集めて共に行動することは、単にサッカー指導にとどまらず、子供の生命の安全までも心配しなければならない時代だということは確かです。安全ということについて今と私たちの子供の頃と比較すれば、当時は夫婦共稼ぎで両親の帰宅が遅く、いつも家の鍵を持っている子は「鍵っ子」と言われ、どこか暗い影を持っているように見られた。それだけ、家には年寄りや母親がいつもいて、夕方の人通りは今と比べてずっと多かった。今は高崎のはずれの町でもそういう子供がめずらしくない。スーパーマーケットが郊外型になり、主婦は車で買い物に出かけるようになると、住宅地の道路はほとんど人が歩いていない。放課後の学校の校庭はスポーツ少年団が練習をしていないときなど、薄気味悪いくらいに静かだ。

 そういう世相を背景に南八幡地区にもサッカーの土壌は作られたわけです。幸いにも私たちのクラブには根小屋グランドが与えられました。正式名は根小屋多目的運動公園です。
 
 昭和58年の赤城国体の盛り上がりもあったのでしょう、それまで小学校の校庭を他の競技団体と使いまわしていたのが、校庭1個所では間に合わなくなり、野球、ソフトボール、サッカー、ゲートボールそしてテニスを交えて、市へ強い要望を出した結果、昭和60年、地区の中心地から外れた根小屋の河川区域(河川敷ではない)に高崎市が農地を借り受け、地区の体育振興会が管理するというかたちでグランドを建設したのであった。


   雷と空っ風

 根小屋城祉が頂上に眠る観音山丘陵の麓を県道と上信電鉄が平行に走る。県道から500m幅程の畑地を挟んで烏川が沿うように流れる。その川の横に根小屋グランドが誕生した。

 出来あがった多目的運動場は始めは見栄えが良かった。サッカーコートは野球兼用であったがローラーで填圧して平らになり、その南側のテニスコートはアスファルトを一面に敷き、そのまた南側のゲートボール場も川砂を平らに敷いた。
 このまま平穏無事に物事が進展すれば、世の中は楽園とまではいかないが、人々に幸福な日々をもたらすんじゃないか。しかし、侭ならない。

 ここは、赤城山、榛名山、御荷鉾山(妙義山ではない)にかこまれ、烏川が高崎市街地の東側を南北に走り、鏑川と鮎川に合流し利根川にそそぎこむ。ここから関東平野。赤城、榛名の向こうには谷川岳、子持山、浅間山と控えているが、春は霞が全ての背景をぼかしている。

 上州には四季のうちに自然の猛威の時期がある。冬から春にかけて吹く「空っ風」と夏から秋にかけて発生する「雷」の季節だ。
 風は赤城降ろしとか榛名降ろしといわれているが、シベリヤの寒気が日本列島に打ち寄せてくるとき、日本海の湿気が長野や新潟の山岳部に大雪を降らせる。残った冷気と風は榛名や赤城を乗り越えて関東平野に吹き荒れる。穏やかな一日と思っても、日が傾きはじめると決まって来るのである。グランドにいて風に立ち向かっていると、その勢いはすさまじい。特にいけないのは榛名と赤城の間が風の門になっているらしく、利根川や烏川が風の通り道になっているようだ。乾いた土を舞い上げふきとばし、整地されたグランドは容赦無く荒地と化していく。
 風が止むとしばらくして雷の季節になる。山に雷雲ができると雷鳴をとどろかせながらやってくる。夜、昼に関係無く突然やってくるから恐ろしい。ただ、田植えの終った頃の夕方に特に多いようだ。夕立と共にくれば、練習をすぐにやめて解散するが、雨が降らないと子供は練習をやめない。榛名の空が真っ黒になっていても
「雷がくるぞ、練習はおわり」
「まだ平気だよ」
とボールを蹴りつづける。それが30分も立たないうちに、こっちへ近づいてくると、あわてて家に帰り出すからおもしろい。
 ここでは雷の生まれたところの名前を呼ぶ。「榛名の雷」「御荷鉾の雷」「赤城の雷」というぐあいに。赤城の雷はここから見ていると派手に稲妻を落としてはいるが、こちらには来ない。榛名の雷が烏川を下り高崎を直撃する。稲光と「ドドーン」と雷鳴が同時に来て空気を振るわせる。風も雷も生まれたてでエネルギー満載だからことのほか激しい。落雷の直撃を受けて火事になった現場も見た。本当に恐ろしい。

 雷や空っ風相手ではいたしかたない。ただ、根小屋グランドのある場所が人里からやや離れすぎているため、年寄りのゲートボールにはこの自然条件が過酷なのかもしれない。風雨や強烈な日差しを除ける施設は河川区域で建てられない。だいたいここまで足を運ぶのに大変だ。声はかかっていたのだろうが、とうとう一度も「コーン」という玉を打つスティックの音は聞かれなかった。 
 テニスは地区内の主婦が愛好会を結成して2,3度練習をしている。自家用車で乗りつけて来るが、畑のど真ん中にアスファルトのコートでは、いくら無料とはいえ間尺に合わないだろう。清楚なウエアーもすぐ埃にまみれ、目も開けていられないのだから、雨や風対策に武装して来なくてはならない。見ていても可愛そうになってくる。やはり、以後2度と華麗な姿は見られなくなった。

雑草と石ころ 

 気候、天候はこの地の特色だからどうにもならない。スローガンには風に向かって走れ、というのもある。 逆に考えればスポーツをするには他の地方よりも気候は良い方ではないかと思う。
 さて、次の問題が雑草と石ころ対策だった。グランドがつくられたその秋には、うっすらとではあるが一面に細かい葉を出し始めていた。私などは簡単に考えていて、人が頻繁に使うところは草も生えないだろうと思っていたし、あとは人海戦術で草刈をすればだいたい維持できると考えていた。また、車で鉄のアングルを引けば平らに整地ができ草も生えないのではと……。この予測で年2回、春と秋にグランド使用チーム総出で草刈をすることにした。
 明くる年その時が来た。春の草刈大作戦は計画どおり遂行されたのであるが、冬の間の強風でグランドの正体が暴露されたのである。乾燥した土が風に跳ばされ中から出てきたのが、親指大の石ころや、アスファルトのかけらや、瓦のかけらそして鉄筋がむき出しになったコンクリートまで出てきた。整地に使われた土砂はどこかの残土だったのである。結局、草刈をしながら野球やソフトボールは内野を、サッカーはゴール前を中心にスコップで危険物の除去をしなければならなかった。
 さらに、追い討ちをかけるように草の生育が早かった。アングルも石に引っかかり用をなさない。一度根を張った雑草は完全に退治することは到底できなかった。全ての計画は頓挫した。土のグランドは望みようがなく、最後の手段はお金を出し合い強力な草刈機2台で草のグランドにすることだった。

 冬は草が枯れて土肌が出てくるので、石や廃棄物が見つかりやすい。そこで名案が浮かんだ。いや、うまくいったというのがほんと。
―石ころ拾い競争― 練習のはじめの10分間、誰が一番多く石を拾うか競争をしたのです。拾った石を自分の分だけ山にして最後に用意したバケツの中に数えながら入れる。私はその間スコップで大きな産廃物を掘り出してグランドの隅へ積む作業をした。これは功を奏した。子供も石拾いだとはわかっているのだが、競争となると闘争心が出て、驚くほどたくさんの石を片付けられた。10分の1回勝負がミソで、2回目をやると真剣さがなくなり、石投げがはじまる。練習の始めの10分は石拾い競争を続けて、そんなことで石の問題は少しずつではあるが解決していった。

 残るは雑草の問題。草は春と秋口に勢い良く生育する。ちょうど麦と稲の2毛作に合っている。私の相手は雑草だから収穫は全く無い。ただただグランド整備のための草刈なのだが、草たちと付き合うと彼らの生命力に圧倒されたり、感心させられたり、こちらにも心境の変化がでてくる。
 始めは草退治とグランドのでこぼこを平らに馴らすことだけに目が向いていた。そもそものはじまりだった体育振興会で決めた年2回の草刈大作戦が実は大失敗だったのだ。草の伸びる早さは驚くほど早い。髪が伸びたから散髪に行って来るなんて悠長なことを言ってられない。大作戦のあとの二週間くらいでぼさぼさになる始末で、それ以降は使うごとに草刈をしなければならなかった。

 ひどい目にあったのは、2年目の夏―山名FCは子供の夏休みで練習も8月は完全に休みにしていたが、8月の末にグランドに出てみたら、草は腰のあたりまで伸びた大原野になっていた。
 そこへ父兄の吉田さんもかけつけてくれたが、運も悪く1台の草刈機は誰かがエンジンを焼き付けてしまったらしく修理工場に入っていた。私はそこへ何度も足を運んだが、とうとうスクラップのまま復活してこなかった。
「使用する前にエンジンオイルを確認していつも満タンにしておかないから、使っているうちに焼き付いてしまったんだ。」
 私が修理屋さんに叱られてしまった。
「そうか、オイルが命か」と教訓にはなった。

 それからは2人で毎週のように草刈機を押した。また、グランドの外周6mの余白面は手がつけられず、土手などは笹や太い茎の草が人の背丈位になっていたが、これも父兄の本郷さんが草刈機持参で、まる2日掛かりで退治してくれた。
 夕方、草刈が終ってグランドで飲むビールは格別だった。
「ほんとに助かります」と御礼を言うのですが、
「子供が気持ち良くサッカーが出来ると思えば、少しも苦じゃないよ」とビールを飲みながら2人は笑って答えてくれた。言葉には出ないのですが、感謝の気持ちを通りこして、ただただ頭の下がる思いだった。

 3年目には野球が去り、ソフトボールも他のグランドに鞍替えした。残った山名FCだけは1台の草刈機を頼りに週に2度の練習を継続していた。
 グランドと名がついているが、ゴールもあるし、練習もなんとか出来る草っぱらと思えば、これを作った役所や業者に対しても腹はたたなくなる。とにかく、広さは公式の競技場なみはあるのだから、ここで試合が出来るようになるかどうか、グランド整備だけは続けようと心に決めた。

 何年も草刈をやっていると少しは知恵がついてくる。


 
スズメノカタビラ

 オヒシバ(チカラグサ)
                                     
 どうやら春の雀の帷子と夏の雄日柴が雑草の親玉らしいのである。グランドにボコボコと出てきたと思うと茎が株になり、グランドの凹凸を激しくする。いくらこれらが密生しても株があるから、草刈で平らになったようでもボールはまっすぐ転がらない。この親玉を完全に退治するのは不可能なので、考えたのは春先と真夏の雨上がりの土が柔らかい時を狙って草刈機で土もろとも耕し状態にしてしまう。若くて葉が柔らかいうちに削って株を作らせないのである。次ぎから次ぎと葉は出てくるが、一度耕すと次の草刈が非常に楽になった。高麗芝のようにはならないが、けっこう色々な草で芝に似たような太さと長さでグランドが覆われるようになった。しかし、草刈機の刃は1年でボロボロになった。とにかく、石ころも何もかまわず土ごと(1センチくらい)耕しているのだから、耕運機といってもいい。
「草刈機の刃は土から数センチ離して使ってください。」
またしても叱られた。
「すいません、石ころが多くてしかたないんです。」
毎年このやりとりで季節が終る。しかし、確実にグランドは平らの面が増え、草も親玉が幅をきかせなくなった。

 現在までピンチは何度もあった。残った草刈機が今では年老いてしまった。それを酷使してまたエンジンが焼き付いてしまったのだ。私は農機具屋さんに平身低頭お願いした。
「これが壊れると将来ある子供たちが、まったくサッカーを出来なくなってしまいます。なんとか直してください。」
「無茶な使い方ばかりしているからこうなるんだ、しょうがないなあ。」
また、叱られた。
 けれども、最大限の修理をしてくれて今でも(昔のような勢いは無いが)草をガンガン刈ってくれる。

 雪が降るとしばらくグランドは使えない。朝方ようすを見に行くと、四輪車の走った跡がグランドの中央からぐるぐると回っていた。雪が解けるとそこは轍(わだち)になっていた。そこは一年間草が生えない。

 一度買い物で県道を車で走っていたら、グランドの中でバイクが走っているのを見つけた。それはモトクロスのバイクで服装も決まっていた。私はすぐさま現場に行きグランドに入って、楽しそうに所狭しと走り回っているバイクを止めて怒鳴った。
「お前はここがなにかわからねえ〜のか」
「友達がここで走っているの見たもんだから、いいと思って」
「ふざけるな、暴走族も外に車を止めてサッカーやってるんだぞ、てめえはバイクに乗る資格なんかねえ〜」
「すいません」
「わだち、消してけ〜」
消えるはずもないので、私は言うだけ言って、
「ちゃんとしたとこで走れ」と言って返した。

 グランドが良くなると、ゴルフ場のグリーンとはいかないが、ラフに近いのではないか、ゴルフボールが草の中にいくつも転がっており、草を刈った後には午前中から来てやるのだろう、夕方にはクラブの振った跡に草が削れている。

 気がついたら、雑草を人間から守っていた。

 私はこのグランドで自由に子供たちが走りまわることを夢見ている。ストリートサッカー。それにこだわっている。子供と雑草というとり合わせはなかなか絵になる。サッカーは子どもを大人にすると言われるが一時でも大人は子どもに帰れればなおいいと思う。
根小屋グランドはまだまだ完成していない。  

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